「カンボジアの小学校訪問」で見た〝学びの本質〟と、日本人が学校教育で忘れてしまったこと【西岡正樹】
分からない問題を解こうと必死に取り組む姿勢がここにはある
その結果として、ベトナムやカンボジアにおいて学校訪問が実現できる運びになり、その関わりの中で、SALASUSUの主催する「Learning Journey」にも参加することができるようになった。そして今、私は「SALASUSU」の工房兼学校にいるという次第なのだ。この流れからいくと、そもそも「SALASUSU」(サルスースー)とはどのようなNPO団体なのか、それをお伝えした方が良さそうだ。
「SALASUSU」の理事長である青木さんや理事の菜々子さん、そして工房兼学校の校長である後藤さんたちスタッフの人たちと話をするのは、とても面白い。その理由は明確だ。みなさんが自分たちの想いを実現するためにカンボジアに移住し、私自身が踏み込んだことのない「未知の道」を堂々と歩んでいるからなのだが、理由はそれだけではない。「SALASUSU」が求めているビジョンが、「すべての人が人生の旅を楽しめる社会へ」ということだと知り、より興味が湧いたこともある。また、その言葉選びにも大いに共感できた。
そもそも「SALASUSU」の始まりは、カンボジアの子どもの人身売買を撲滅するために設立された団体「かものはしプロジェクト」からなのだが、「かものはしプロジェクト」がある程度目的を達成したということでカンボジアから撤退することになり、その事業を引き継ぐかたちで設立されたのが「SALASUSU」である。そして、カンボジアの社会状況の変化に伴い「SALASUSU」は、教育事業へと大きくシフトチェンジしているのが現在の状況である。
私は、「家庭にも学校にも居場所がない子どもたちが、誰一人とり残されず学ぶ権利が保障され、学校をセカンドホームと思えるような社会」という「SALASUSU」のミッションにも、とても共感している。それは、私が教師としてずっと目指してきたクラスが、「誰一人としてとり残さない教室」だったからなのだが、まさか、カンボジアの地で、このミッションにも表れているような、「学びの共同体」の理念に触れるとは思いもよらなかった。そして、「SALASUSU」の教育事業が、「学びの共同体」の理念で活動しているのは、私事として嬉しい。
しかし、危惧していることもある。それは、果たしてカンボジアの教師たちは今のカンボジアの学校をどのように捉え、そして、自分たちの学校をどのようにしたいと考えているのだろうか、そして、それに伴い「学びの共同体」の理念を、果たしてカンボジアの教師たちは受け止められるのだろうか、ということである。
15年近くカンボジアの人たちと関わってきた「SALASUSU」のみなさんは、そのことを踏まえた上で実践されていると思うのだが、教育改革は結局のところ実践者である教師が、教育改革をどのように理解し、その教育内容に合致した自分なりの教育ビジョンを持てるかどうかにかかっていると私は思っている。日本の教育改革を何度か経験し、周りにいる多くの教師たちを見てきた者として言えることであり、日本もカンボジアも同じだと思うのだが、その実践者である教師一人ひとりの意識や意志が明確でなければ、「教育改革」という重い石はけっして動かないのだ。
そのことを踏まえた上で、「SALASUSU」の事業として現在進行形で進んでいるのが、「公教育の教育改革」なのだと、私は理解しているし、今回の「Learning Journy」にも地域の小学校や国立大学の付属小中学校の教師、また職業訓練校の教師たちが多く参加していたのだが、カンボジアの教師たち(日本の教師たちにも当てはまる)が「Chalk and Talk」から抜け出すためには、何をどのようにすればいいのか、それを学び合っていくことが「Learning Journy」の大きな目的でもあった。そして、その学びの場として示されたのが、今日のチャンナ先生の授業なのである。